徳川幕府と天海僧正

 日本においての鬼門伝説は平安時代までさかのぼることができますが、とくに興味をひくのは、現代の日本の首都東京の中心ともいえる皇居、かつての江戸城が鬼門・裏鬼門をはじめ、風水学を機密に計算してつくられていたことです。
 もともとは太田道灌(1432〜86)によって築城されたのですが、この地に決めるためにいろいろな場所を視て回り、結局、江戸氏の居館の地であるこの場所しかないと道灌が判断した理由は、自分自身がもっている中国風水学の知識によってであると思われるのです。と言いますのは、道灌は室町中期の武将であり、兵法家として陰陽五行の理に通じていた方です。
 ご存じのように、江戸城は慶長八年(1603)に徳川家康によって江戸幕府の本拠地とされました。道灌が築城した江戸城に家康が幕府の拠点を置いたのは、ひとえに天台宗の大僧正であった天海です(1536?〜1643)の献策があったからです。天海は当時では比肩し得る者がないくらいに中国大陸の学問、中でも易学の通じていたと思われます。
 そして、歴史の裏舞台にあって、家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕え、百八歳で大往生した天海僧正、彼がいなければ江戸幕府がはたして二百七十年もの長い間存続できたかどうか疑わしいと言ってよいでしょう。その天海僧正は徳川幕府の永代にうたる存続を祈願して、上野山に寛永寺を建立しましたが、この寛永寺こそ江戸城の東北方、つまり鬼門封じのために建てられたのでした。
 京都の比叡山延暦寺と同様に上野山という龍脈(地気が蜿蜿起状して突起し連なった山脈)の突端に建てられた寛永寺は、おそらく江戸城の鬼門除けとしては最強であったと思われます。ちなみに、易学では東北鬼門方位は艮の卦で示され、万物万象の終結を成すところであり、かつまた開始を成すところでもあるとしています。また、季節では冬の終わりと春の始まり、新暦でいう1月6日ごろの小寒から3月5日ごろの驚蟄(日本では啓蟄)にいたる2ヶ月(1月6日〜2月4日)までを「丑月」、2月4日〜3月5日までを「寅月」としています。時間では、午前1寺から3寺までを「丑の刻」、午前3時〜5時までを「寅の刻」としていますが、「丑」というのは1年1日の陰の気が終わろうとする時で、「寅」は陽の気がまさに始まろうとする時を示しているわけでもあるのです。
 こうしてみると、丑月と寅月の境に当たる部分は丑寅、つまり東北鬼門方位は「大気現象が1年の営みを終え、また新たな1年の営みを始める」という意味で、さらに変化・停止・相続などのことをつかさどると「易」では説いています。

東北鬼門方位に当たる水戸藩

 江戸幕府の幕藩体制において、いわゆる徳川御三家が設けられていたことはご存じでしょう。徳川義直を尾張(尾張藩)に封じ、徳川頼房を水戸(水戸藩)に封じ、徳川頼宣を紀伊(紀伊藩)に封じて、もし将軍家に世継ぎが生まれなければ、原則として尾張が紀伊から迎え、とくに水戸藩からなるべく世継ぎを出さないように配慮していたのです。
 天海はこう遺言しました。「水戸藩より世継ぎ(将軍)を迎える時、徳川家は終焉する」はたせるかな、第15代将軍である徳川慶喜は水戸家から出ましたが、大政奉還、明治維新の世を迎え、ついに徳川幕府は終焉しました。
 この謎を解くカギや「鬼門」です。水戸藩は江戸城から見て東北鬼門方位に当たったのです。東北は先に述べたように変化・相続をつかさどるとされていますから、「相続が変化する」ことを意味し、徳川家の存亡が危ぶまれるわけで、水戸藩から将軍家を迎えてはならないとした、と考えられます。東北鬼門方位の上の山に寛永寺を建てたのも、こうした理由があったのです。

江戸城の鬼門除け

 さて、江戸城の中心にその周辺地理を見ておくと、さらにおもしろいことに気づきます。上野の寛永寺は、江戸城の鬼門除けのために建てられたということを述べましたが、もともと江戸城鬼門除けとされた場所が別にありました。その一つは永田町の日枝神社です。もとは太田道灌が川越市に祀られていた山王権現を江戸城内に移し、白の鎮守にしたものを、徳川家康が江戸城に入城した時に、近江坂本の日吉神社とともに城内の紅葉山で祀り、さらに半蔵門の外辺へ還座させました。その後、明暦3年(1657年)正月の振袖火事で炎上したため、現在の赤坂溜池の隆起した吉地に還座しました。
 もう一つは、平将門を祀った神田明神です。現在でも将門の首塚はビルが立て並ぶ大手町界隈にちゃんと残っています。日枝神社と神田明神をともに江戸城の鬼門に移しておいて、さらに寛永寺を建てるという執拗なまでの鬼門守護にかける天海の意地は凄まじいものがあります。それもこれも家康の本命卦にとって、東北方が大吉方(天医)なのに江戸城の東北は凶相だったからにほかなりません。
 天海はまた、東北と正反対である西南の方位、つまり裏鬼門に当たる場所に芝の増上寺を建て、裏鬼門除けとしました。西南は易では坤卦で、家庭・母親・日常生活に関したことなどをつかさどっていると説きます。また家康の本命卦からも中吉方(延年)になります。徳川家のお家安泰・子孫繁栄のためにも、天海は西南の裏鬼門にゆるがせにしなかったと思われます。ちなみに、西南の裏鬼門は未申で、季節にとれば新暦の7月7日の小暑から8月8日の立秋をへて、9月7日の白露までの時期に当たり、1日にとれば、午後1時から3時が「未の刻」で3時から5時までが「申の刻」に当たります。また、これは夏・昼の陽気が終わりを告げ、いままさに陰気に変わろうという時に当たります。
 天海は江戸城からみて北に当たる日光に東照宮を建立しました。北は十二支でいえば、「子」、季節でいえば、冬で、易では坎の卦に当たり、部下、盗賊・剣難などを意味します。東照宮を建立したのは、徳川家がよき部下に恵まれ、諸大名の謀反を防ぎ、お家の安泰を期するためであったということがわかります。
 以上のように天海が陰きわまって陽に変ずる東北の鬼門方位を大事にしたのは、時代の変還、時流の変化を恐れたからでしょう。事物がおよそ変化変転する時には、内と外との力関係の均衡がとれなくなるものです。つまり、外国との往来を鎖国によって抑制したのは、外的圧力を断ち切るためだったのです。
 当時一般人がどの程度、方位に関心をもっていたのかはわかりませんが、いまでもなお東北の鬼門を忌み嫌うのは、このような考え方が江戸時代から、民間に伝承したからではないでしょうか?

吉方位は各人によって毎年変わる

 鬼門に関してもう一つ歴史的事実を考察してみましょう。京都に目を転じると、京都御所は皇居の丑寅の方角、つまり東北の鬼門を欠けにして建立されています。これは先に述べたように東北は変化・停止・相続を意味しますから、天皇の血筋に欠けを生じさせ、藤原氏が自分の権勢をほしいままにせんとする陰謀だったと理解できるのです。
 また、奈良の都、平城京から長岡京に遷都(784年)して、わずか10年で桓武天皇は都を京都の平安京に移しました。京都は長岡から見て東北の鬼門方位に当たります。これは明らかに遷都の失敗を意味しています。大地の気は20年を1周期としますから、10年でまた東北の平安京に都を移したのは、それなりのやむにやまれない理由があったに違いありません。その理由は、東北の陰が終わり、陽の始めを意味しますから、桓武天皇は蝦夷征伐に失敗し、皇室では夫人や母が死に、皇太子は病に倒れ、内憂外患の事態を迎えていたので、その行き詰まりを打開しようとして、いわゆる東北の吉方位に遷都したわけなのです。
 このように、風水学では家屋の丑寅(艮)の部分を欠けにしたり、増改築したりすると、相続人が欠け、それまでの家門が隆盛だったのものが、停止して衰退するために、みだりに東北鬼門をいじらないようにいましめているのですが、ただし吉方位は各人によって毎年変わるということも知っておいてください。

東京の地形・地勢

 ご存じのように、明治維新以後に京都から東京に遷都しました。このような歴史的事実の背後には必ず重大な理由があると考えるのが道理です。まして、一千年以上も続いた皇室の住まいを移すからには、それなりの必然性があるといってもよいと思います。そこで、まず東京の地形・地勢を大局的見地に立って鳥瞰してみましょう。
 結論から先に言えば、東京は風水学からみると理想の地です。東京は西北の秩父山脈、西南の丹沢山脈に連なる入間大地、武蔵野台地、大宮台地、下総台地、多摩丘陵、相模原台地などに囲まれています。風水学では、台地の生気が流動し、蜿蜒起伏した地勢の地は草木・動物、そして人間に対して天然の活気を与え、生命力をもたらすはたらきがあると考えます。したがって、古来からそうした場所に都を定めれば、その国は大変な繁栄を遂げると説かれ、実際に中国史を眺めてみても、それはうなずくことができる事実なのです。
 東京から西北から西・西南にいたる山の手区域あたりに、いくつかの谷や坂が多いことに気づきます。風水学では、すぐれた土地は第一に起伏があって平坦でないという条件があり、その点からも東京は条件を満たした地といえます。 そして、東京の地形を山地・丘陵・台地・低地というように標高に分けると、ポイントは皇居に帰着してしまいます。ですから皇居はいわば東京の臍というか、中心に当たる場所になり、これを風水学では「龍穴」と呼びます。龍は山脈の生気が躍動する形態を指し、その生気が一ヶ所に聚集した場所を「穴」と称します。
 いま、主要な坂に限ってあげてみれば、皇居の東北方に位置する上野の車坂、千駄木の団子坂、湯島天神の男坂・女坂、北の小石川富坂、小日向の切支丹坂、次に西北方に当たる日白台の日向坂、早稲田の八幡坂から、西方の神楽坂、弁天坂、三宅坂などがあります。西南に下ると、赤坂の紀尾井坂、南部坂、乃木坂。渋谷の宮益坂、道玄坂、権乃助坂があり、南に近い所では霞が関坂、愛宕石坂、魚藍坂などがあります。このほか実際には東京西北から南に及ぶ地域に広がる武蔵野台地の末端部には、何百という坂があり、それらの坂がみな皇居の一点に吸い寄せられるようにして散在しているのです。地理学的には台地の末端部の谷を開析谷と呼んでいますが、皇居の付近を見ると、北は神田の丸ノ内、南は溜池谷により区画される幅2..5〜3キロメートルの台地の突端に小さな開析谷が連なっています。北方から見ていくと、千駄木不忍谷、指ヶ谷谷、神田丸ノ内谷、溜池谷、古川谷、日暮里谷、駒込谷、呑川谷などです。これらの開析谷は、それ自体小さな龍穴(小龍穴)になり、地の「気」が凝結したすぐれた地形であり、当然ながら発展した地域になります。

皇居の風水勢

 風水学では「水」の気を非常に重視します。小龍穴に当たる開析谷にはいくつかの河流が見受けられます。河流という水の気に蛇行して流れていると、その地の生気を守り育むと風水学では考えます。人体にたとえるなら、血管や経絡という気の流れる経路が大地における河流といってもよいでしょう。  藍染川、谷田川、神田川、平川、金杉川、渋谷川、内川、石神井川、目黒川、妙正寺川、野川、白子川、善福寺川など、みな程よく曲がりくねった形で蛇行して流れ、周辺の地域に水気を絶え間なくおよぼしているかのように見えます。このようにクネクネと蛇行して流れている河川を風水学では「水泡」と呼び、地の気を散らすことなく活性化させるはたらきがあると考えますが、この何百という小龍穴である開析谷にたくわえられた地の生気を守り育んでいると判断できるでしょう。  少し離れた皇居の東方には利根川、江戸川、中川、荒川、隅田川などの一級河川、二級河川が流れていて、それも皇居を包みこむように走っていますから、これも水泡であり、皇居の地の気を守り育成している源泉でもあります。さらに皇居の東南から南にかけて東京湾があり、東北に不忍池、北に小石川後楽園の池、西に新宿御苑の池、赤坂離宮の池をも擁し、皇居の周囲にある内堀と外堀を含めて、水気は十分なまでに揃っていることに気づかされます。  皇居の内掘、外堀にいたっては、単に文化財の保護という意味から現存しているだけではないでしょう。いまどき騎馬兵が旗指し物を揚げて、皇居に殺到することもありませんから、極端な話がお堀がなくても不便だというわけではないのです。お堀を残すことによって皇居という優れた大龍穴、いわば天然のパワースポットの地の気を散逸させないために、誰かの知恵がはたらいたのではないかとさえ思えます。こうした地形・地勢を風水学では「砂環水抱」といい、希有の吉地とみなします。  「砂」とは龍穴(パワースポット)の付近の大地・丘陵を指し、龍穴がこれに左右から包囲されていれば、地の気を散らす風に吹かれても、地の生気は散じることなく、その地に凝集されます。そのうえ、水気が曲折して緩やかに、その周辺の地を潤し、あるいは水池、海があれば、龍穴の秀気は洩れ出ることなく、枯渇せず、生き生きとして、繁栄をもたらす吉地となります。つまり、こうした天然の吉地に居城を築いた太田道灌、そしてさらにそれを修改築した天海大僧正たちは、明らかに遠く唐から伝来した学問、とりわけ風水学を主は根拠にしたと違いないと考えます。
 
リンク 本当の風水をご存知ですか? リンク 一度聞いたらクセになる風水開運セミナー
リンク 誰も語らなかった風水の奥義とは? リンク 「血潮」・・・そこに開運の近道がある
リンク 私が風水住宅にした理由 リンク 風水最強開運法の陰宅風水とは?
リンク 風水ガーデンは庭造りに革命を起こす! リンク ご存知ですか?印鑑の大切さ!
リンク 経営者必見!ビジネス風水の極意! リンク 風水運命鑑定ご希望の方
リンク 自宅に届くプロの鑑定結果 リンク 風水住宅施工例
リンク 風水住宅、ガーデン施工のご案内